聖書研究 

〔ローマの信徒への手紙第8章18−25節〕

将来の栄光

18節≪現在の苦しみ≫≪将来の・・・栄光≫とが決して比較にならないものとして、18−30節までの主題として記されています。将来の栄光とは神の子としての身分を受けることなのです。わたしたちキリスト者は現在も神の子とされています。しかし、現在の苦しみをもって生きている肉体の生活は将来の希望があってその苦しみを耐え忍ぶことができるのです。将来の栄光は抽象的なものではなく、主イエスの十字架の死と復活においてはっきりしています。すべては福音において明らかにされていることを聖霊なる神がわたしたちに働きかけて、明らかにしてくださり、神の栄光へと導いてくださっているのです。神の栄光はわたしたちが当然にして受けることができるものではありません。神の大いなる愛と恵みによるものであることを知らされます。神の栄光に畏れて礼拝しています。わたしたちは示されている神の栄光の栄光を大いなる希望として信じています。その信仰により現在の苦しみを取るに足りないと思わされます。そして、生きる勇気と希望を得させていただいているのです。

19節≪神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます≫被造物の望みは神の出現です。それは終末的な望みです。この「被造物」とは神の創造されてものです。しかし、この被造物とは何でしょうか。神の造られたすべての物でしょうか。それとも、すべての人か、それとも、キリスト者なのでしょうか。また、「神の子」の出現を待ち望む、神の子とは御子のことなのでしょうか。ここでは神の御心に従った神の子であり、「神の霊によって導かれる者」(14)です。ここにおいて被造物が望むということはすべての人であり、現れる神の子とはキリスト者であることとして知るものです。これは神によって実現させられるものです。それは全人類の望むものです。それを完全に実現されたのは神の御子イエス・キリストです。それが福音であり、福音により、すべての者が救われて神の子としてなされることを望むものなのです。

20−22節≪虚無に服しています≫虚無とは、無意味なこと、実り無き「滅びへの隷属」(21)ということです。それは「服従させ方の意志による」と記されています。この方は神です。しかし、それは現実的な人間の行いにおいて不完全な罪の生活の現実を前にしてはある面納得させられますが、その中に希望がないわけではありません。同じ方がわたしたち人間の内に希望を与えられています。こうした中でわたしたちは虚無に服していたとしても、神の導きがあり、それに従うことによって、希望が与えられているのです。この希望が神の子が現れることなのです。この希望は神から与えられているものです。この「希望」は21節にある「滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」ということなのです。このことが今やわたしたちの希望としてあると信じています。それにより、虚無に服しているとしても神の意志の下に生きる者として神の恵みにあずからせていただいている者として神の御心に従うようにされていることは滅びではなく、神の栄光に輝く自由にあずからせていただいていることを知るのです。神の希望こそわたしたちの生きる拠り所なのです。しかし、わたしたちはその栄光にあずかるために、「共にうめき、産みの苦しみを味わっている」(22節)のです。このうめきと苦しみはわたしたちの現在の苦しみなのです。しかし、それは単なる人間のもってうまれたところの哀れな罪人してのもの、つまり、原罪における神の裁きと刑罰に対する苦しみではないのです。そうではなく、今や神の子とされて、「キリストと共に苦しむ」(17)ということなのです。それは神のために苦しむものなのです。神のために神の御心に従うことに対するうめきと苦しみなのです。それは人間の業ではなく、神の業です。

23−25節≪“霊”の初穂をいただいている≫わたしたちは神を待ち望んでいます。その「霊の初穂」とは、神の子とされることです。聖霊なる神の実として神の働きを受けるのです。それにより、心は救いの確信をいただいています。そして、現実の体の贖いは終末的なこととして、心でうめきながら、神に向かい、神を待ち望んでいます。これは神の子とされた者の生き方なのです。このうめきは神に従う者の神への畏敬であり、神の子とされた者の真実と誠実なのです。しかし、それは神の御心に適うものなのです。この「うめき」のないキリスト者はありません。≪希望によって救われています≫(23節)救いの確信は人間の内にはありません。それは神にあります。神に希望をいただくのです。目に見えない神に向かって、示され、与えられた希望によって、信じるのです。この信仰により救われるのです。この信仰とは主イエス・キリストの福音によって現されている神の救いを信じることなのです。信じることによって神から与えられる霊の初穂をいただいていることを確信が得させられています。それが救われているということを知ることなのです。それにより、わたしたちキリスト者は神を≪忍耐して待ち望むのです≫(25節)。

 わたしたちが神の子としてこの世に生きています。しかし、肉体をもって生きていますが、「苦しみ」があります。現実の体が贖われることは終末的な希望としてあります。どのようになるかは信仰によってその時を待ち望むものです。その信仰は滅びの隷属からの解放が行なわれて、体が贖われるということなのです。それまで、わたしたちは忍耐して待ち望まなければならないのです。しかし、それは神からの希望により救われていると確信していますから、単なる肉と罪による滅びの苦悩ではないのです。救いに入れられた者としての生きることの神への真実と誠実をもって生きることのうめきと苦しみなのです。わたしたちは救われたということをしっかりと覚えて生きるべきなのです。それは神からの信仰と希望と愛とであることを信じましょう。

 

〔ローマの信徒への手紙第5章15−21節〕

アダムとキリスト

15−17節≪恵みの賜物≫ と≪罪≫ との比較。最初の人アダムと最後の一人の人≪イエス・キリスト≫のとは比較にならないのです。人間においては罪により死があり、罪が支配してすべての人々を有罪としています。すべての人間は誰もこれから逃れることなどできません。すべての人々は罪人である自覚があります。そして、それに苦悩しているのが人間なのです。この有罪に対して努力して罪を解決しようとして生きているのが人間なのです。人間はその事実を認めようとしません。それは必死になって幸せをつかもうとしているからなのです。しかし、生まれながらのおもむくままの本能では自己の中に本当の幸せがないことなどよくわかっています。それは罪ということの支配が死においてあまりにも強くあることを恐怖として恐れおののいているのが人間なのです。

 しかし、この世には≪神の恵み≫が現実に存在します。それが≪一人の人イエス・キリストの恵み≫なのです。主イエス・キリストが人となられたということにより、神の恵みがこの世のすべての人々に賜わったもの≪賜物≫なのです。≪恵み≫とは≪神から注がれる≫ものです。人間が求める以前から神は人間に何が必要なのかを知っておられるのです。それゆえに、神からのものであるという≪恵みの賜物≫であるということを知らなければならないのです。人間が自らが罪を知って求めたものではないのです。人間は罪を知っていたなら、神の恵みが絶対に必要なのを知ることになりますが、これは神が一人の人としての主イエス・キリストの恵みによることがなければ知ることができません。恵みであるがゆえに≪一人の人イエス・キリスト≫により≪無罪の判決≫が下されたのです。ここにおいて、この≪一人の人イエス・キリスト≫における救いがすべての人々によることが強調されています。人間の思いでは考えられないことなのです。罪に対する憎悪は増大するものです。しかし、神の御心は人間の思いとは違います。神の御心にある≪恵み≫ということなのです。恵みの考えは人間にはありませんが神にはあるのです。それゆえに神の御心はすべての人々が救われて神の恵みに生きる者となるということなのです。それが神の≪創造≫と≪救い≫なのです。それが主イエス・キリストのおいて行なわれて、神の恵みが注がれているということなのです。わたしたち人間はそれにあずからせていただくことができる者です。

18−19節≪一人の人の正しい行為≫によって義とされて命をえることができるようになったのです。正しい行為とは神に対する≪従順≫です。それが主イエスの行為なのです。人間が有罪となったのは神に対する≪不従順≫です。それが罪なのです。神と神の言葉への従順こそが人間の行わなければならないことなのです。しかし、これを行うことができる人間は人となられた主イエスしかできなかったのです。神への従順はそんなに難しいことだったのでしょうか。そうではないのです。神は人間が神に従順に生きることができるように創造されたのです。そのことが可能なことを主イエスは人となられて実行されたのです。この一人の人、主イエスがこの従順を行わなければ誰も義とされず、命を得ることがなかったのです。主イエスの正しい行為によりすべての人が義とされ命を得させていただけたことなのです。それは主イエスにとって簡単なことではなかったのです。十字架の死は主イエスにも最も厳しく過酷なものでした。わたしたち人間と同じ弱さをもって神へ従順されたのです。そして、正しい行為を主イエスが実現されたからわたしたちに命を得させていただいているのです。

20節≪律法が入り込んで来た≫ 律法論を展開させています。この律法という意味が≪罪が増し加わるため≫という大胆な発言になっています。当然に反論が起こります(61,77以下参照)。これは律法の逆説的機能、≪恵みはなおいっそう満ちあふれました≫という罪を赦す恵みの豊かさと神の支配を際立たせるものとなっています。恵みは豊かで満ちあふれるものです。罪の赦しということで、この恵み豊かさをわたしたちはしみじみと知らなければならないのです。わたしたち人間は律法のもとでも罪を増大していくものであり、それをはるかに上まわる神の恵み豊かさと深さを知ることになるものであることを教えています。神の恵みは武力や暴力というような威圧的なものではなく、神の義と愛との両面において完全な実現している主イエス・キリストの恵みとしての賜物として得させていただいていることをわたしたちは恵みということにおいて明確に覚えていなければならないのです。

21節≪永遠の命に導く≫ 神の支配はこの世的なものではなく、人々を≪主イエス・キリストを通して、永遠の命に導く≫ものなのです。それは威圧的ではなく、また暴力的なものでもありません。それは人間的なものであり、罪人の行うことです。そして、主イエスは人間的な暴力と威圧と弾圧と受けられました。鞭も打たれました。十字架の死ということを受けられました。けれど、主イエスは今そのようなことをいっさい行なわれず、≪恵み≫≪義≫をもって支配されています。人間にはできませんが、神にはできるのです。わたしたちは今はっきりと恵みの賜物と罪とが比較にならないものであり、神の恵みの賜物が豊かに注がれていることを主イエス・キリストの十字架の死と復活を通して知らなければならないのです。そして、義とされた恵みにより、主イエスの正しい行為がどのようなものであるかを見つめて知らなければならないのです。そして、信仰により、主イエスの正しい行為である神と神の言葉への従順を模範として、神に従順し、正しい行為となるように励みましょう。それは主イエスについていくことなのです。自分を捨て、日々自分の十字架を背負い、主イエスに従うことなのです。神の恵みの賜物のゆえにできるのです。

index.html

週報