嫁にゆく日が 来なけりゃいいと
おとこ親なら 誰でも思う
早いもんだよ 二十歳を過ぎて
今日はお前の 花嫁姿
贈る言葉はないけれど
風邪をひかずに 達者で暮らせ
私はこの歌だけは生涯忘れ去る事が出来ない。芦屋小雁の兄、芦屋雁之助が歌い、鳥井実が作詞、松岡孝之が作曲した大ヒットをとばしたメロディーなのである。芦屋雁之助と云えば皆んな御存知の如く、東宝映画で封切られた、裸の大将、小林桂樹主演、テレビドラマでは雁之助が見事に画伯山下清役を演じた。このドラマも戦後今は亡き佐田啓二と岸恵子が演じた「君の名は」に匹敵するだけの評判が高かった。その彼がまさか歌うなどとは、夢にも思はなかった。この歌を聞くと涙が頬を濡らすと同時に、遠く過ぎ去りし日を思い出す。想い出せば又涙がこぼれる。なぜこの文章を綴るのか、自然に筆が走る。
想いも寄らぬ別れた妻の喪報の連絡を受け妻の実家に行った処にすでに本人は死亡、その仏の前で約二十年振りに娘に逢う。長い間文通さえ無く心にはかけていたが、まさか逢えるとは、私は長年逢えなかったが直ぐ我が娘だと解った。本当の親子の血筋は争えないと…穴でもあれば入いり度い気持で一杯だった。逃げ出す事も出来ず、間借りて来た猫同然の状態で通夜葬式と無事終った。
去年は長男の死亡、こゝに来てその母が。壗になるなら私が変わってやりたかった。娘は私とは逢い度くはなかったのは私には良く解る。今は夫に先立たれ一人暮しだと云う。そんな娘に私は親らしく何一つしてやる事が出来なかった。別れた妻とは昭和三十七年に入籍、男の年齢的には遅すぎる三十五才の時に出生した。昭和三十九年と云えば東京オリンピックの開催の時だ。当時私は露天商や行商を飯の糧としていた。景気は良く金は自然に儲かり組の為、生活の為、今から考えると若いせいもあったのか舌の廻りも人には負けず、おやじさんには可愛がって例えばつくしのように寒い冬を耐え春めいて頭を出して来た様な気分で我乍らうきうきし娘や倅を幸せにしてやり度いとの一心であった。
世の中とは、さう自分が描いた絵の様にはいかない。岐阜から仕事を終え帰った途端、妻は私に「美和子も(娘の名)幼稚園にゆく頃になったし父親が今の稼業では生活は楽かもしれないが世間様には大きな顔も出来ないし足を洗うなら話は別だが、さうでなければ 子供の為に離婚若しくは別居してくれ」と哀願し、一と晩考えた揚句別居する事にした。別居するにしても今更部屋住みする事さえ侭ならず 兎に角、おやじに話し組の近くに住居をかまえた。昭和四十五年ある理由から離婚する事になり、妻は二児を引き取った。昭和六十年娘が二十二才で結婚したと風の便りに耳にした時、果かなくとも、室内のスピーカーから流れて来たのが、娘よ だった。歌を聞きながら窓辺で秋虫のさえずりを布団の中で孤独を味ひ乍ら涙を浮かべ乍ら男泣き、寝入りした頃が今も脳裡に残っている。
娘も結婚したが、さぞ苦労もし父親を恨んだ事だろう。影ながらこれから歩む新しい門出を祝ってやる事も、笑顔で見送ってやる事さえ出来ない。その事が娘にして見れば頭の中にあるから私には逢はうともしない。
逢い度いと思うのは当然無理な話だ、只一つ実家から帰る際、娘は、「お父さん元気の母ちゃんの分まで長生きしてね。命日と春秋の彼岸には必ず罪滅ぼしだと思ひお墓参りだけはしてね。」と云って立ち去った。三十年もの間、頭の中で想像していた娘であった。私は四、五才位の他人の女の子をみると、何故か娘を慕う。この年頃に私は娘と別れたのだ。
哀れでならない。他人の子でも私に話しかけてくると私はなぜか心がなごむ。私は人生の壁に突き当った時、取るべき判断が間違っていたのである。悔いても仕方あるまいと自分で自分を慰さめるしか解決方はない。
それからと云うものは、必ず、娘よ、を口ずさむ。新宿の西口での越冬闘争の時も 渋谷山下公園での越冬の時も、仲間の尺八や太鼓三線に合わせ 私の放浪歌ごよみ、と題し紙芝居の中に 娘よ を取り上て一頁を綴り仲間のメロディーに乗り、娘よ を歌ひ、例え一時でも仲間に喝采を浴びた。
現在野宿を止むなく生活している仲間の中には、娘さんを持ち、娘の安否を案じている人もいると思う。娘のため、自分自身が歩いて来た道を今一度たしかめ合い、明日に夢を描きながら、娘よ、を歌ほうではありませんか…
笑い話で、すませるけれど
口じゃ云えない 苦労もあった
嫁に行ったら 我が侭言わず
可愛い女房と 云われて欲しい
いつも笑顔を 忘れずに
ついて行くんだ信じた人に…