咸臨丸の歴史
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写真素材のピクスタ

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1.黒船来航
江戸時代、鎖国体制を取っていた日本に突然「黒船」が現れます。大型軍艦に全く無防備の日本は多いに動揺しました。成すすべも無く次々に港を開港し、不平等な取引が始まる中、1人の侍が幕府に提案をします。「日本も対等の軍艦が必要」。提案者は時の勝海舟、早速長崎に海軍伝習所が創設され、当時唯一国交のあったオランダに軍艦を2隻発注します。




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2.咸臨丸誕生まで
発注した軍艦の1隻がオランダの植民地だったインドネシアから到着します。当時のオランダは戦争状態にあり、新造船を建造する余裕はありませんでした。到着した船は中古船です。それでも伝習所の訓練生は初めて見る日本の黒船に大喜びでした。船名は「観光丸」と名づけられました。名の意味は中国の言葉にある「相手の国の国益を知るには、相手の国の光を観れば良い。」から来ています。翌年、2隻目の発注船建造が本格的に始まり、1857年日本へ到着します。こちらが後の「咸臨丸」となります。船名の意味は「君臣が互いに親しみをもって臨む。」と云う、同じく中国儒教の言葉から来ています。

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3.咸臨丸サンフランシスコへ
1860年、咸臨丸は日米修好通商条約批准の為、日本人を乗せてアメリカに渡る「ポーハタン」号の随伴艦として、品川を出港。途中横浜へ寄港し、そこで日本で遭難した「フェニモアクーパー」号のアメリカ人乗組員を乗船させます。次いで浦賀へ寄港。最後の水と食料を補給し、サンフランシスコへ命懸けの航海に出ます。そもそも咸臨丸の役割は「対等の立場で交渉に臨むこと」。アメリカ船と同じ様に日本人も大洋を渡る技術を持ち、不利な交渉にならない様、監督すると共に、世界と対等に渡り合える事をアピールする狙いがありました。

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4.アメリカ人乗組員
横浜港で乗船する事となる「フェニモアクーパー」号の乗組員たち、侍日本人たちと小さな船で共同生活する事になり、苦労があった様です。日本人は「自分たちの力だけで大洋を渡らなければ意味がない!」と自負があります。アメリカ船員の協力なんて無用・・・。のはずでしたが、大部分の乗組員は船酔いになり、実際に航海を勤めたのはジョン万次郎と、後の咸臨丸船長「小野友五郎」くらいだったそうです。しかしアメリカ人船員をきらう多くの侍乗組員。ある日、事件が起こります。

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5.ピストル事件
船内でとても大切な真水。1日に使える水の量は1人2升5合と定められてました。ところが、ある日アメリカ人船員が必要以上の真水を使って洗濯しているのを日本人乗組員が発見!ピストルを突きつけます。慌てて周りの日本人乗組員が押さえつけ、気を静める様、話をしていたところに、騒ぎを聞きつけたアメリカ人の船長「ジョンMブルック」がやって来ます。そして彼はとんでもない事を口にしたのです。「アメリカ人であろうと日本人であろうと関係ない。貴重な水を無駄にした罪は重い。撃ちなさい。」と・・・。この日以来、アメリカ人船員と日本人船員の間に大きな信頼が生まれました。

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6.咸臨丸の提督
咸臨丸太平洋横断航海の提督は「木村摂津守喜毅」で、「勝海舟」ではありません。船の事は知らずとも、位の高い方が「船の提督」と云う時代だったのです。「勝海舟」は海軍伝習所の教授として乗船していました。しかし、「木村摂津守喜毅」は提督としても相応しいとても慕われる方でした。咸臨丸乗船にあたり、私財の殆どを売却して金に換え、乗組員の士気高揚に役立てた他、余ったお金はアメリカ軍人の未亡人団体に全額寄付したのです。「木村摂津之守」も、船と運命を共にする事に従った一人の船乗りでした。

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7.自室に籠る勝海舟
勝海舟は太平洋航海中、自室に籠って1歩も外へ出なかったと云われます。その理由はいろいろありますが、どうも酷い熱と咳に苦しめられていた様です。実はアメリカ渡航について、当初幕府の1番船「観光丸」で航くことが決められていました。着々と準備が進む観光丸。ところが出港数日前になって、突然「咸臨丸」で渡米する様、幕府から命が下ったのです。慌てて積荷を積み替える乗組員と勝海舟。連日の大雨でズブ濡れの作業となりました。この事がきっかけで勝海舟は重い咳を患い、体の身動きが取れなくなったと云う説があります。

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8.サンフランシスコ寄港
300トン余りの小さな小船に107名もの乗組員を乗せ、37日間に渡る航海・・・・。海は時化で晴れた日は7日となかったと云われます。幾多の困難を乗り越え、1860年(万延元年)3月17日、遂に咸臨丸はサンフランシスコの沖合いにその姿を浮かべます。彼らの偉業はサンフランシスコ市民を大いに驚かせました。咸臨丸サンフランシスコ寄港時、先に出港したはずのアメリカ帆船「ポーハタン」号の姿がありません。なんと随伴艦であるはずの咸臨丸が先に目的地へ着いてしまったのです。咸臨丸乗組員の使命(世界と対等に渡り合う。)は確実に果たされました。

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9.咸臨丸のその後
咸臨丸が果たした功績は太平洋横断ばかりではありません。帰国した年、対馬に不法停泊するロシアの商船に警告する為、現地へと向かいます。ロシア船は水や食料の補給を終えた後も、なかなか対馬を離れません。恐れを感じた藩主が、幕府に対策を要請したのです。事態は咸臨丸の到着、威圧で回避されました。その翌年には小笠原探索に向かいます。当時どこの領土かはっきりとしない小笠原に、日本の領土である事を伝える使命を受けていました。こちらも大役をみごとに務め、今もなお、小笠原の人々と咸臨丸の話しをする際、必ず太平洋横断より先にその話しが出てきます。

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10.咸臨丸永眠
歴史は明治へと移ります。江戸時代の武士によって築かれた新体制、ところが新体制の中で居所を失う武士が続出します。その一人であった「榎本武揚」、遂に政府に逆らって江戸から脱出を試みます。旧幕府の帆船数隻を乗っ取り、蝦夷へと舵を切る船団。その中に咸臨丸もありました。しかし、途中で大時化に遭い、咸臨丸は船団を離れて清水へ漂流・・・。追ってきた政府軍に乗組員全員が惨殺されます。その屍を清水の次郎長が手厚く葬った話しは、地元に今でも残ります。政府に再び接収された咸臨丸。北海道開拓の為、青森と函館間の輸送船として使われましたが、江差へ回航する途中に座礁事故を起こし、木古内の沖、津軽の海で永眠します。
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禁無断転載    参考文献:土居良三作『咸臨丸海を渡る』(未來社)