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ハウステンボスの復元帆船(咸臨丸除)
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1.オランダ村とプリンスウィレム
風車とドライブスルーしかなかった開業当初のオランダ村に、オランダ本国からオープンを祝って一隻の帆船模型がプレゼントされます。ただの模型ではありません。17世紀、船の建造時に図面の代わりとして製作された模型の実物です。オランダ村神近社長はその場で、この船を復元したい。とオランダ側に建造を要請します。その行動は多くのオランダ人の心を掴みました。そしてオランダ村発展の莫大な原動力となります。建造された帆船が写真のプリンスウィレム号です。

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2.観光丸復元
幕末の時代、幕府が設置した長崎海軍伝習所に、1隻の練習艦がオランダ政府から寄贈されます。寄贈当初は「スンビン」号の船名でしたが、勝海舟らによってその後「観光丸」と改名されました。今の観光旅行の語源はこの船にあると云われてます。オランダ村は次に、この「観光丸」の復元に乗り出します。実際に動く帆船を使って全国を巡り、子供たちに海や自然、船の事を学んでもらう構想「大航海塾」をスタートしたのです。しかし、オランダ人にとっても思い入れ深い船。当時のままにほぼ忠実に再現された同船。日本の港を自由に巡る沿海資格を取得できなかった事が原因で、「大航海塾」は先送りされる事になります。

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3.西海橋と観光丸
1955年に掛けられた当時としては東洋一アーチ橋「西海橋」。その真下を観光丸が通峡します。ドックで船体検査を受ける12月または1月にだけ、大村湾から外へ出ます。海面上、橋の下まで36m、観光丸のマストは海面上31メートル。その間は僅か5mしかありません。干満の差が無い垂水の時間帯を狙って、慎重に航行します。

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4.帆走、観光丸1
大村湾を航行する観光丸の姿です。パドル(外輪)の付いた帆船は世界中でも殆どありません。風だけを動力にしていた時代から、蒸気エンジンへ・・・。産業革命が起こった当初の船です。スクリューが開発されるまでの短い期間、この様な船が世界各地で建造されました。




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5.帆走、観光丸2
幕末の時代、観光丸を譲り受けた幕府は、「2隻目はもっと最新鋭のスクリュー船にしてほしい。」とオランダに要請します。そこで登場したのが「咸臨丸」でした。丁度時代が外輪からスクリューへ移り変わる時代です。




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6.デ リーフデ
安土桃山時代の1600年、三浦按人やヤン・ヨーステンらを乗せて日本へやって来たオランダ帆船です。当時豊臣秀吉と深い繋がりのあったポルトガルに対し、徳川家康はこのオランダ船に多大な興味を示しました。大分県臼杵に漂着したリーフデは堺を経て浦賀まで回航。乗組員の彼らを江戸へ呼び寄せます。東京駅八重洲口の「八重洲」はヤン・ヨーステンの屋敷がそこにあった事から名付けられました。

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7.西海橋とデ リーフデ
リーフデ号は浦賀で船火事を起こし、1部を残して全焼します。リーフデの物語を映画にした「将軍」では、当時対抗勢力であったポルトガル人が、日本とオランダの交易を阻止すべく火を放ったと描かれてますが、私の知る限り、真実は判っていません。また、驚くことに焼け残った1部、船名の由来である人物「リーフデ」の木像は、400年経った今でも東京国立博物館に保管されています。

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8.夕日の大村湾と観光丸
夕日の沈む大村湾を観光丸が航行します。間もなく暗くなる時間。営業航海ではこれ程暗い時間に航行する事はありません。写真はエンジンテストの為、試運転に出る観光丸の姿です。周りの建物が闇に隠れ、140年前の光景がそのままに広がります。




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9.デ リーフデ物語1
1991年3月、ハウステンボス開業に合わせてミュージカルの公演練習がスタートします。作品は月夜の晩、オランダの港を舞台にデ リーフデの出港シーンを再現したストーリー。劇場で見るのではなく、船が停泊する桟橋の上にステージと観客席があるので、臨場感は究極です。ファンクラブも発足する程の人気でしたが、僅か2年で公演は打ち切られてしまいました。

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10.デ リーフデ物語2
ストーリーでは、地位と名誉の為、生きて帰れない覚悟を決して冒険に望む乗組員と、永遠の別れになるであろう家族や恋人達の心情を伝えるシーンから始まります。そして船は港を離れ、悲惨な航海へ・・・。400年前の事実を元に再現した内容だけに、リアルなストーリー展開が心を打ちます


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